全貌ウィキリークス
去年、世界を震撼させたウィキリークスは多くの問題提起を私たちに投げかけた。
それは、情報の主体は誰なのかということ、そして彼らウィキリークスが行った行為は正義か否か
ということ、さらには、言論の自由という人類の歴史の中でも重要な権利をめぐる問題だ。
本書はそんなウィキリークスを少しでも一般の人々に明かすことを目指し、また彼らが目指す
世界や彼らの行為の問題点を挙げながら、上に挙げた問題を考察している。
古代ギリシャの時代より国家という権力主体が生み出され、長い間、情報を囲い込む権利を独占
してきた。それは現代においても同様だが、古代ギリシャの時代と異なるのは、インターネットの
存在だ。インターネットによって、国家が独占してきた情報が瞬く間に我々一般人にも届くようになり、
現代においてその存在感はますます増大している。それを如実に物語ったのが、ウィキリークス問題
だろう。この問題は非常にデリケートで、慎重に議論されなければならない。まず、議論されなければ
ならないのは、彼らの行為が正義か否かということだ。本書では、はっきりとは明言してはいないが
内容から判断すると、ウィキリークスに対して肯定的な考えを持っていることがうかがえる。
去年、マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』がベストセラーとなり、多くの人たちに読ま
れたのは、まるでこのウィキリークスをめぐる正義の問題を考えさせるためだったのではないかと
思わせるほどだ。それでは、ウィキリークスは何をもって正義としているのだろうか。
人類の歴史をひも解けば、国家権力が情報統制を行っている事例は枚挙に暇がない。しかし、なぜ
国家は情報を秘匿するのだろうか。やはり理由がある。たとえば、不必要な情報を流す事によって
人々を混乱させることを防ぐ、というのが一つ挙げられるだろう。確かに、その情報を流す
事によって、国内、あるいは諸外国に大きな混乱をもたらす可能性があるとすれば、人類の秩序のため
には必要なことだろう。しかし、ここで疑問が生じてくる。それは、情報の取捨選択をする主体がなぜ
国家なのかと言うことだ。ウィキリークスの創設者であるジュリアン・アサンジ氏はそのことに疑問をもち、
国家と一般市民との間の情報の非対称性を是正し、よりよい「平衡状態」を実現させるために、一般の人々が
当然知るべきと彼が考える国家の機密情報をネット上にアップし、それを全世界に暴露したのである。
情報は核兵器にも匹敵するような「武器」だ。ということは、それらは慎重に扱わなければ大きな危険を
伴う。「もの」は使用のされ方によってその性格が大きく変容する。情報も同じで、それを無差別に公開
することは、少し言い過ぎかもしれないが、銃を無差別に乱射していることと変わらないのではないだろうか。
本書によれば、ウィキリークスは「隠しおおせるものは何もない。すべては公にしうる。それを知ることが
よりよい世界をつくる」という理念によって行動しているようなのだが、国家の機密情報を暴露することに
よって「よりよい世界」がつくりだされたのだろうか。私はそうは思わない。確かに、長いタームで判断すれば
ウィキリークスの行為が正しい行いと認められる可能性は否定できない(次の世代の仕事かもしれない)。
しかし、少なくとも短期的なタームで判断すれば、彼らの行為は各国に混乱をもたらしただけなのでは
ないだろうか。すべての情報を共有することが必ずしも良いことではない。情報を上手く操作することに
よって世界の秩序が保たれているというのも厳然とした事実なのである。
したがって、彼らの行為が正義か否かという問いに対して、私はNOと言いたい。政治的な行為には
理念を持って行われなければならない。彼らも一応は理念らしきものを持っているが、その理念を実行
に移す手段は国際的なルールにのっとって行われなければならない。しかし、彼らの行為は各国家の
法律を無視した無差別的なもので、到底正義と呼べるようなものではない。
この問題でもうひとつ議論されなければならないことは、言論の自由という問題だ。
彼らウィキリークスの行為は国連の世界人権宣言第19条、
「すべての人は、意思及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の
意見をもつ自由ならびにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報および思想
を求め、受け、及び伝える自由を含む。」
から判断すれば、正当化できるように思われる。確かに、ウィキリークスにも自分たちの思想や考えを
広げ、自分たちの理念を体現する主体としての資格をもっている。しかし、それが保障される前提として
国際的なルールや各国の法律にしたがうことが求められる。彼らの行為は、既存のジャーナリズムの
「チェック・アンド・バランス」という機能を逸脱した行為ではないだろうか。
今、日本では既存メディアが担ってきたジャーナリズムが劣化し、衰退していると盛んに叫ばれる。
こうした事象群は私たちに改めて言論の自由やジャーナリズムについて考えさせる事を求めている。
そして、このウィキリークスの問題はその格好のテーマなのである。多くの人たちがこれについて自分の
意見を持つようになれば、「よりよい世界」が生まれると私は信じている。
それは、情報の主体は誰なのかということ、そして彼らウィキリークスが行った行為は正義か否か
ということ、さらには、言論の自由という人類の歴史の中でも重要な権利をめぐる問題だ。
本書はそんなウィキリークスを少しでも一般の人々に明かすことを目指し、また彼らが目指す
世界や彼らの行為の問題点を挙げながら、上に挙げた問題を考察している。
古代ギリシャの時代より国家という権力主体が生み出され、長い間、情報を囲い込む権利を独占
してきた。それは現代においても同様だが、古代ギリシャの時代と異なるのは、インターネットの
存在だ。インターネットによって、国家が独占してきた情報が瞬く間に我々一般人にも届くようになり、
現代においてその存在感はますます増大している。それを如実に物語ったのが、ウィキリークス問題
だろう。この問題は非常にデリケートで、慎重に議論されなければならない。まず、議論されなければ
ならないのは、彼らの行為が正義か否かということだ。本書では、はっきりとは明言してはいないが
内容から判断すると、ウィキリークスに対して肯定的な考えを持っていることがうかがえる。
去年、マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』がベストセラーとなり、多くの人たちに読ま
れたのは、まるでこのウィキリークスをめぐる正義の問題を考えさせるためだったのではないかと
思わせるほどだ。それでは、ウィキリークスは何をもって正義としているのだろうか。
人類の歴史をひも解けば、国家権力が情報統制を行っている事例は枚挙に暇がない。しかし、なぜ
国家は情報を秘匿するのだろうか。やはり理由がある。たとえば、不必要な情報を流す事によって
人々を混乱させることを防ぐ、というのが一つ挙げられるだろう。確かに、その情報を流す
事によって、国内、あるいは諸外国に大きな混乱をもたらす可能性があるとすれば、人類の秩序のため
には必要なことだろう。しかし、ここで疑問が生じてくる。それは、情報の取捨選択をする主体がなぜ
国家なのかと言うことだ。ウィキリークスの創設者であるジュリアン・アサンジ氏はそのことに疑問をもち、
国家と一般市民との間の情報の非対称性を是正し、よりよい「平衡状態」を実現させるために、一般の人々が
当然知るべきと彼が考える国家の機密情報をネット上にアップし、それを全世界に暴露したのである。
情報は核兵器にも匹敵するような「武器」だ。ということは、それらは慎重に扱わなければ大きな危険を
伴う。「もの」は使用のされ方によってその性格が大きく変容する。情報も同じで、それを無差別に公開
することは、少し言い過ぎかもしれないが、銃を無差別に乱射していることと変わらないのではないだろうか。
本書によれば、ウィキリークスは「隠しおおせるものは何もない。すべては公にしうる。それを知ることが
よりよい世界をつくる」という理念によって行動しているようなのだが、国家の機密情報を暴露することに
よって「よりよい世界」がつくりだされたのだろうか。私はそうは思わない。確かに、長いタームで判断すれば
ウィキリークスの行為が正しい行いと認められる可能性は否定できない(次の世代の仕事かもしれない)。
しかし、少なくとも短期的なタームで判断すれば、彼らの行為は各国に混乱をもたらしただけなのでは
ないだろうか。すべての情報を共有することが必ずしも良いことではない。情報を上手く操作することに
よって世界の秩序が保たれているというのも厳然とした事実なのである。
したがって、彼らの行為が正義か否かという問いに対して、私はNOと言いたい。政治的な行為には
理念を持って行われなければならない。彼らも一応は理念らしきものを持っているが、その理念を実行
に移す手段は国際的なルールにのっとって行われなければならない。しかし、彼らの行為は各国家の
法律を無視した無差別的なもので、到底正義と呼べるようなものではない。
この問題でもうひとつ議論されなければならないことは、言論の自由という問題だ。
彼らウィキリークスの行為は国連の世界人権宣言第19条、
「すべての人は、意思及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の
意見をもつ自由ならびにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報および思想
を求め、受け、及び伝える自由を含む。」
から判断すれば、正当化できるように思われる。確かに、ウィキリークスにも自分たちの思想や考えを
広げ、自分たちの理念を体現する主体としての資格をもっている。しかし、それが保障される前提として
国際的なルールや各国の法律にしたがうことが求められる。彼らの行為は、既存のジャーナリズムの
「チェック・アンド・バランス」という機能を逸脱した行為ではないだろうか。
今、日本では既存メディアが担ってきたジャーナリズムが劣化し、衰退していると盛んに叫ばれる。
こうした事象群は私たちに改めて言論の自由やジャーナリズムについて考えさせる事を求めている。
そして、このウィキリークスの問題はその格好のテーマなのである。多くの人たちがこれについて自分の
意見を持つようになれば、「よりよい世界」が生まれると私は信じている。


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